うまい写真でなぜ悪い!? ― 2017/06/07 14:29
写真学校1年生。
自分の写真を撮りたくても、自分のやり方をしたくても「ネオパンSSとミクロファイン」フィルムも現像液も印画紙も指定。それどころかレンズは50mm指定。「ズームの人はアロンアルファで留めるから前に持ってきて!」なんたるちあ!冗談でした。
「好きな写真を撮って来て講評とか無いんですか?」「そりゃ後期だね」その通り。夜間クラス週3回の授業。前期は「暗室現像」「スタジオライティング」「4x5大型カメラ」大型カメラって今どきやる意味あるの?
そのときは目的が何なのかわからなかった。今はわかる。視る訓練だ。
後期開始。
大型カメラの授業が終わり、「自分のカメラで写真を撮って来て講評」に内容が変わる。やっとスタート位置に立った感じ。毎週「お題」が出て、それを聞いて写真を撮ってくる。
最初は「運動会」だった。「会社でも町内でもいいから運動会、撮ってくるんだよ」
言われたとおり運動会を撮ってきた。僕はサンニッパを借りて知り合いの小学校に行き(当時まだそれほど厳しくなかった)、次々に写真を撮った。かけっこ、騎馬戦...動く被写体を追うのは楽しく、サンニッパは迫力ある写真を作り出していった。
現像してジャスピンが来たネガを焼く。プリントサイズは規定の六切。今のA4程度だ。
みんなの写真を前に並べ、先生が黙って1枚ずつ全部見る。(ほめられるかな、どこを注意されるかな...)何を言われるだろうとみんなワクワク。じっと先生の背中を見ている。
全部見終えた先生が口を開いた。
「うまいねえ!」
「いや〜、実にうまいよ!」
「みんな本当にうまい!」
「こりゃあうますぎる!」
うれしかった。みんな喜んだ。
僕もほめられながら(でも先生、ほめるばかりじゃなく「ここをもう少しこうすれば」みたいなこと言ってくださいよ〜)と思っていた次の瞬間。
「いや〜、うまい!ほんとうまい!」
「うまいしか言いようがない写真だよね〜」
「いや〜、うまいだけでちっとも良くないね!」
えっ?なに今の?
何が起きたかわからないまま、最初の授業は終わった。
直後に数人が前に押し寄せ「自分の写真のどこが良くないか」聞きに行ったが、笑顔の先生は何も答えなかった。
さすがにその日の授業が終わると飲みに行った。
それぞれ仕事を持ちながら通ってきている。夜間に来る人はみんな本気だ。大学を出て写真学校に来るなんて自分だけかと思ったら立教、早稲田、神大...事務のNさんに「今年は東大クラスだねえ」わけわかんないことを言われる始末。とにかく論理的に説明すれば理解ができる。
しかしなんなんだ?それじゃ「うまい写真」がいけないみたいじゃないか!
(※注:うまい写真がいけないわけではありません。うまい写真は、あくまでうまい写真である、ということです。)
そのときは先生の言ってることが全くわからなかった。
「うまくて何がいけないんだ?」
「先生は僕らの腕前に嫉妬してるんじゃないか?」
「あの先生の作品見たことあるけど大したことなかったぜ」
「そうそう!誰でも撮れそうな写真だったよ!」
みんな混乱した。
「うまい」写真と「いい」写真は違うの?
じゃあ「いい」写真ってなんなんだ?
◇ ◇ ◇
何回か「お題」が出て、それについて撮り、先生がいつもの「うまいねぇ〜」と言い、次に「ちっとも良くないねぇ」と言い出すループが続いた。
先生は何が良くなくてどうすればいいか、ちっとも言わない。
とはいえ、ヒントが無いわけじゃなかった。
先生が「お題」というのを、こちらが「じゃあ次のテーマは○○ですね」確認すると。「違う、『お題』だ、『テーマ』じゃない!」と、言葉を訂正してきた。
...なんだよ「お題」と「テーマ」で何が違うんだよ?
先生がほめた写真もある。
ほめたと言っても「イイねえ!」と言う程度。しかしそれまで次々「うまいねえ!」「うまさだけだねえ!」言い続けている中で、突然「イイねぇ!こりゃイイ写真だ!」と先生が言い出したら、そりゃ何が起きたかとクラス全員思うだろう。
どんな写真でどんなケースだったか覚えていない。例えるならそれはお弁当の写真だった。普通にお弁当を広げている写真。あるいは運動会がお題だったかもしれない。
「これ、おいしそうだな!」「はい!朝○時に起きて作りました!」「いや〜おいしそうだ!...なあみんな!おいしそうだよな?イイ写真だ!」
おいしそうだからイイ写真......なのか!?
「それだと運動会に撮ったかどうか、わからないじゃないですか」と誰かが聞くと、先生は
「わからなくたっていいんだよ!」
「わからせる必要なんて無いんだ!」
やや強い口調で言った。
ん?
運動会「を」撮ってくる?
運動会「で」撮ってくる?
「それじゃ運動会に行って、行く途中で花を見つけて撮ったらそれでもいいことになりますけど?」
「いいんだよ、それで!」
「じゃあ、花の写真がその人には運動会?」
「そうだ」
「わかった!だから『テーマ』じゃなく『お題』なんですねっ!?」
先生、ニヤリ。
◇ ◇ ◇
またあるとき。
お題は「異性」だった。
「兄弟でも両親でも恋人でも、会社の同僚でも通りがかりでもいい。異性を撮ってくるんだよ!」
そして翌週。
ずらりと並べた写真を見ながら一点ずつ解説を始めた。
「この人は家族!...親戚?そっか」
「この人は友達!...会社の同僚?だよな」
「この人は...知らない人だな」
「この人は恋人だろ?」
笑った顔でも「通りがかりの人」で、むっとしてても「家族」、無表情でも「恋人」...それらを次々と言い当てていった。
それどころか「付き合ってるだろ?」「この子オマエに気があるぞ」エー先生なぜそのこと知ってるんですか?どこかで見られた?知り合いですか?...教室中が大騒ぎ。
※これ、見る訓練ができればだいたいわかるようになります。
どんなに笑顔でも、それは照れの裏返し。どんなにむっとしていても、それは撮影者に心を許しているから。
ファストフードや遊園地キャストの笑顔と本物の笑顔の違い。
通りがかりに声かけて撮った相手の戸惑いと、ずっと暮らしてる恋人の無表情の奥にある信頼感の見分け。
写真に写るのは「関係性」で、何を撮ってもそこには自分の姿、自分のまなざしが投射されている。写真を見る人は無意識にそこを感じ取っている。
それらを理解するまで半年かかった。
◇ ◇ ◇
うまい写真を見ると「うまいですね」と感想が出る。
では作者は撮るとき、それを期待しているのか。
風景でも人物でも目の前の光景に「はっ」と心を揺らして撮ったのではないか。だとしたら、鑑賞者が作品世界に入って楽しむ前に、うまさが気になってしまう写真は、はたして本当にいい写真と言えるのか。
たしかに古今東西、有名な写真作品を見るとき、心にじーんと響いてくる。いつまでも眺め続けて見飽きない。
見た瞬間「これはうまい!」なんて思わない。作品世界の中にスーッと連れて行かれる。自然に見せるためにテクニックが使われていて、それはわざわざそういう目で探し始めてやっと気付く程度。
撮影者のまなざし。撮影者の気分。写真を見て、あたかも自分もその場にいてその光景と対峙(向き合う)しているかのような気分になる。撮影者の体験を鑑賞者が追体験することで気分が共有できて共感できる。これが写真世界の特徴。
◇ ◇ ◇
舞台に関わるようになって、同じようなことに気付いた。うまい役者はうまく見えない。うまそうに見える役者は、本当はそんなにうまくない。真にうまい役者は、役作りも稽古も全く見えず、普通に舞台にいるように見える。登場人物になりきってリアルに見える。
ダンスだって同じ。より早く回り高く跳んですごい技術に目を見張ることがある。けれど一方で情感を持つ踊りに涙したりする。そこにうまさは感じない。だが「うまくない」わけがあるだろうか。
それらの差はいったいなんだろう...と思うと、やはり「うまい」と「いい」のところに戻って来るのである。
「うまい」と言われたい気持ちはあるかもしれない。しかし「うまい」と言われた時点で確実に何か「やりすぎ」ていたり「方向が違っ」ていたりする。
ほんとうに「うまい」ってね。
「うまい」と感じる前に世界に引きずりこまれて、
堪能してるんだよ。
ほんとうにうまいのは、うまさを見せないものたち。
だから「イイカンジ」を頼りにするんだ。
◇ ◇ ◇
余談:
ちなみに、もし万が一、この話にあなたが興味を持って
「うまい写真」より「イイカンジの写真」が気になったら。
恩師は70過ぎた今でも元気に写真教育の現場にいます。
写真表現中村教室
説明会も、やってるみたい。
ずいぶん会ってないし、こっそりリンクを貼っただけなので
くれぐれも「伊東に聞いた」とか言わないように。
学生時代の黒歴史をバラされたくないので。
自分の写真を撮りたくても、自分のやり方をしたくても「ネオパンSSとミクロファイン」フィルムも現像液も印画紙も指定。それどころかレンズは50mm指定。「ズームの人はアロンアルファで留めるから前に持ってきて!」なんたるちあ!冗談でした。
「好きな写真を撮って来て講評とか無いんですか?」「そりゃ後期だね」その通り。夜間クラス週3回の授業。前期は「暗室現像」「スタジオライティング」「4x5大型カメラ」大型カメラって今どきやる意味あるの?
そのときは目的が何なのかわからなかった。今はわかる。視る訓練だ。
後期開始。
大型カメラの授業が終わり、「自分のカメラで写真を撮って来て講評」に内容が変わる。やっとスタート位置に立った感じ。毎週「お題」が出て、それを聞いて写真を撮ってくる。
最初は「運動会」だった。「会社でも町内でもいいから運動会、撮ってくるんだよ」
言われたとおり運動会を撮ってきた。僕はサンニッパを借りて知り合いの小学校に行き(当時まだそれほど厳しくなかった)、次々に写真を撮った。かけっこ、騎馬戦...動く被写体を追うのは楽しく、サンニッパは迫力ある写真を作り出していった。
現像してジャスピンが来たネガを焼く。プリントサイズは規定の六切。今のA4程度だ。
みんなの写真を前に並べ、先生が黙って1枚ずつ全部見る。(ほめられるかな、どこを注意されるかな...)何を言われるだろうとみんなワクワク。じっと先生の背中を見ている。
全部見終えた先生が口を開いた。
「うまいねえ!」
「いや〜、実にうまいよ!」
「みんな本当にうまい!」
「こりゃあうますぎる!」
うれしかった。みんな喜んだ。
僕もほめられながら(でも先生、ほめるばかりじゃなく「ここをもう少しこうすれば」みたいなこと言ってくださいよ〜)と思っていた次の瞬間。
「いや〜、うまい!ほんとうまい!」
「うまいしか言いようがない写真だよね〜」
「いや〜、うまいだけでちっとも良くないね!」
えっ?なに今の?
何が起きたかわからないまま、最初の授業は終わった。
直後に数人が前に押し寄せ「自分の写真のどこが良くないか」聞きに行ったが、笑顔の先生は何も答えなかった。
さすがにその日の授業が終わると飲みに行った。
それぞれ仕事を持ちながら通ってきている。夜間に来る人はみんな本気だ。大学を出て写真学校に来るなんて自分だけかと思ったら立教、早稲田、神大...事務のNさんに「今年は東大クラスだねえ」わけわかんないことを言われる始末。とにかく論理的に説明すれば理解ができる。
しかしなんなんだ?それじゃ「うまい写真」がいけないみたいじゃないか!
(※注:うまい写真がいけないわけではありません。うまい写真は、あくまでうまい写真である、ということです。)
そのときは先生の言ってることが全くわからなかった。
「うまくて何がいけないんだ?」
「先生は僕らの腕前に嫉妬してるんじゃないか?」
「あの先生の作品見たことあるけど大したことなかったぜ」
「そうそう!誰でも撮れそうな写真だったよ!」
みんな混乱した。
「うまい」写真と「いい」写真は違うの?
じゃあ「いい」写真ってなんなんだ?
◇ ◇ ◇
何回か「お題」が出て、それについて撮り、先生がいつもの「うまいねぇ〜」と言い、次に「ちっとも良くないねぇ」と言い出すループが続いた。
先生は何が良くなくてどうすればいいか、ちっとも言わない。
とはいえ、ヒントが無いわけじゃなかった。
先生が「お題」というのを、こちらが「じゃあ次のテーマは○○ですね」確認すると。「違う、『お題』だ、『テーマ』じゃない!」と、言葉を訂正してきた。
...なんだよ「お題」と「テーマ」で何が違うんだよ?
先生がほめた写真もある。
ほめたと言っても「イイねえ!」と言う程度。しかしそれまで次々「うまいねえ!」「うまさだけだねえ!」言い続けている中で、突然「イイねぇ!こりゃイイ写真だ!」と先生が言い出したら、そりゃ何が起きたかとクラス全員思うだろう。
どんな写真でどんなケースだったか覚えていない。例えるならそれはお弁当の写真だった。普通にお弁当を広げている写真。あるいは運動会がお題だったかもしれない。
「これ、おいしそうだな!」「はい!朝○時に起きて作りました!」「いや〜おいしそうだ!...なあみんな!おいしそうだよな?イイ写真だ!」
おいしそうだからイイ写真......なのか!?
「それだと運動会に撮ったかどうか、わからないじゃないですか」と誰かが聞くと、先生は
「わからなくたっていいんだよ!」
「わからせる必要なんて無いんだ!」
やや強い口調で言った。
ん?
運動会「を」撮ってくる?
運動会「で」撮ってくる?
「それじゃ運動会に行って、行く途中で花を見つけて撮ったらそれでもいいことになりますけど?」
「いいんだよ、それで!」
「じゃあ、花の写真がその人には運動会?」
「そうだ」
「わかった!だから『テーマ』じゃなく『お題』なんですねっ!?」
先生、ニヤリ。
◇ ◇ ◇
またあるとき。
お題は「異性」だった。
「兄弟でも両親でも恋人でも、会社の同僚でも通りがかりでもいい。異性を撮ってくるんだよ!」
そして翌週。
ずらりと並べた写真を見ながら一点ずつ解説を始めた。
「この人は家族!...親戚?そっか」
「この人は友達!...会社の同僚?だよな」
「この人は...知らない人だな」
「この人は恋人だろ?」
笑った顔でも「通りがかりの人」で、むっとしてても「家族」、無表情でも「恋人」...それらを次々と言い当てていった。
それどころか「付き合ってるだろ?」「この子オマエに気があるぞ」エー先生なぜそのこと知ってるんですか?どこかで見られた?知り合いですか?...教室中が大騒ぎ。
※これ、見る訓練ができればだいたいわかるようになります。
どんなに笑顔でも、それは照れの裏返し。どんなにむっとしていても、それは撮影者に心を許しているから。
ファストフードや遊園地キャストの笑顔と本物の笑顔の違い。
通りがかりに声かけて撮った相手の戸惑いと、ずっと暮らしてる恋人の無表情の奥にある信頼感の見分け。
写真に写るのは「関係性」で、何を撮ってもそこには自分の姿、自分のまなざしが投射されている。写真を見る人は無意識にそこを感じ取っている。
それらを理解するまで半年かかった。
◇ ◇ ◇
うまい写真を見ると「うまいですね」と感想が出る。
では作者は撮るとき、それを期待しているのか。
風景でも人物でも目の前の光景に「はっ」と心を揺らして撮ったのではないか。だとしたら、鑑賞者が作品世界に入って楽しむ前に、うまさが気になってしまう写真は、はたして本当にいい写真と言えるのか。
たしかに古今東西、有名な写真作品を見るとき、心にじーんと響いてくる。いつまでも眺め続けて見飽きない。
見た瞬間「これはうまい!」なんて思わない。作品世界の中にスーッと連れて行かれる。自然に見せるためにテクニックが使われていて、それはわざわざそういう目で探し始めてやっと気付く程度。
撮影者のまなざし。撮影者の気分。写真を見て、あたかも自分もその場にいてその光景と対峙(向き合う)しているかのような気分になる。撮影者の体験を鑑賞者が追体験することで気分が共有できて共感できる。これが写真世界の特徴。
◇ ◇ ◇
舞台に関わるようになって、同じようなことに気付いた。うまい役者はうまく見えない。うまそうに見える役者は、本当はそんなにうまくない。真にうまい役者は、役作りも稽古も全く見えず、普通に舞台にいるように見える。登場人物になりきってリアルに見える。
ダンスだって同じ。より早く回り高く跳んですごい技術に目を見張ることがある。けれど一方で情感を持つ踊りに涙したりする。そこにうまさは感じない。だが「うまくない」わけがあるだろうか。
それらの差はいったいなんだろう...と思うと、やはり「うまい」と「いい」のところに戻って来るのである。
「うまい」と言われたい気持ちはあるかもしれない。しかし「うまい」と言われた時点で確実に何か「やりすぎ」ていたり「方向が違っ」ていたりする。
ほんとうに「うまい」ってね。
「うまい」と感じる前に世界に引きずりこまれて、
堪能してるんだよ。
ほんとうにうまいのは、うまさを見せないものたち。
だから「イイカンジ」を頼りにするんだ。
◇ ◇ ◇
余談:
ちなみに、もし万が一、この話にあなたが興味を持って
「うまい写真」より「イイカンジの写真」が気になったら。
恩師は70過ぎた今でも元気に写真教育の現場にいます。
写真表現中村教室
説明会も、やってるみたい。
ずいぶん会ってないし、こっそりリンクを貼っただけなので
くれぐれも「伊東に聞いた」とか言わないように。
学生時代の黒歴史をバラされたくないので。