最高の撮影技術。 ― 2017/03/04 09:43

辞書によると、慣れるとは「何度も経験して普通に感じること」らしい。
続けるうちに経験を積んで少しずつ慣れることを期待したが、30年経ってもちっとも慣れない。緊張が減るどころか最初の頃とまったく変わらない。続ければ楽になると思っていたが、以前こうだったと思い返せばなぞることになっていつまでも追い越せない。
どこでどうなるからどうしてどうすれば良いかシミュレーションしたことをきっぱり全部捨て、どうするんだっけと思い出すのでなく場面に反応して撮る。リアルで新鮮な活写が初めて出来上がる。
毎回新人のようにびくびくしながら初日を迎えることになるが、それも致し方ない。どうせなら不安がるより怯える自分を面白がるほうが楽しかろう。舞台がナマなら、それを撮るのもナマで勝負。
ピアノの前に座った自分は演奏しながら譜面台の数小節先を目で追う。撮影中二つのCPUが独立している。リアルな舞台上に反応する自分がいて、それより1-2行先を脳内の台本は示している。必要に応じて確認程度に参照する。暗譜の部分も多い。
今に反応すれば事象よりわずかに遅れる。その遅れがリアルで新鮮な反応の正体。その都度反応しながら全体の流れを感じてフォルテかフォルテシモにするか一瞬考える。刹那的に思いのまま演奏すればすべてフォルテシモになってしまうし、気分に浸って情感たっぷりに歌えばすべて「こぶしをきかせた」歌い方になるだろう。
そこに他者が存在することを思い出さなくてはいけない。
撮影は二度と同じことのない眼前の光景との出会い。向き合い対話しシャッターを押す。それは自分のための記録と同時に、誰かの何かのためになることがある。写真は次にその人たちとの対話になってゆく。
写真を撮るというのはフォトコミュニケーション。被写体と対峙して受けた想いを、写真を見せる相手に向け発する非言語のヴィジュアルコミュニケーション。想いが受けとめ受け容れられたとき共感が生まれる。伝えたい部分があるならわずかにそこだろう。あらゆる撮影技術を結集して目的達成に向かう。
技術が先に見えたり目立ったり自慢気に見せる人がいてもそれは自由。だけど技術は底に沈んで見えないほうが格好良い。すばらしいのは対象であって撮影技法ではない。「うまい写真」と言われれば落ち込まなくてはいけない。自分ができるだけ完全に無色透明に近いフィルターになって提示。被写体世界の提示には少なくともそう見えることが必要になる。
熟達者の演技は目を見張るばかり...と思うのは大きな勘違いだ。上手い俳優は上手く見えない。それどころか舞台上で演技していない素の状態にさえ見える。そこに演技の技術がふんだんに使われているのだ。
自分の調理法やソースではなく素材のおいしさを味わってほしい。誰でも撮れそうに普通に見えるように撮る。それが最高の撮影技術だと思う。
自分の調理法やソースではなく素材のおいしさを味わってほしい。誰でも撮れそうに普通に見えるように撮る。それが最高の撮影技術だと思う。